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米字「風鈴を」 2019.7.13 起首
風鈴を見てゐる猫の夕かな 桃太郎
ほたるぶくろに灯(トモシ)入る頃 雀羅
咳払影絵の舞台整ひて うに
空気読まない派手な着信 芳
九時五時をしっかり守り窓際に 笑女
八枚切りのパンは売り切れ に
なで肩の影をふみふみ小望月 安庵 月・秋
へちまを下げる宗匠の路地 桃
ウ
さわやかにキャッチボールの捕球音 芳
牛若丸は甲子園かも しをん
恩師への弔辞を諳んじてをりぬ 閑坐
花に雪ふる昼の邂逅 羅 花・春
佐保姫はお菓子のように化粧して 桃
髪をバッサリ切って卒業 坐
半刻をいけない人と蛍舟 女
夏の霜にはゆため息が溶け 庵 月・夏
ペン先のインク固まる文机 芳
金運上げる風水に凝り 桃
あの頃も今も聞く耳もたぬ父 女
石垣崩すガジュマルの木は 上里
二オ
床の間に人形をおく初景色 羅
膳のさびしき雨の正月 庵
おとづれはメトロノームの鳴りてより に
目覚めた猫の手足のびやか 小石
くたびれた営業マンのいるベンチ 芳
今は昔の孟母三遷 を
針金の家を出てゆく鴉の仔 羅
夕べの虹をひとは見届け に
端とはじ耳にあてれば水の音 庵
湖畔と犬と若き女性と 坐
明日からのシニア講座に上り月 を 月・秋
ホームの底にすだくがちゃがちゃ 坐
二ウ
露寒の故郷に住む人のこと 桃
縁談十組纏めると言う を
痛い目にあえば分かるさ本気度が 女
白村江からずっとこのかた 羅
穫れすぎた茄子の料理を四品ほど に
走り書きには昼寝起こすな 芳
馬肥えてお仙ころがる秋を待つ 庵
風ニモマケズ凛と磯菊 芳
銀鉤のめぐり来るとき熱を出す に 月・秋
イザナミ追えば逃げるイザナギ 女
おぞましき姿を花にかえ給え 庵 花・春
鏡の中も抱卵期なり 羅
三オ
猫の子を窺っている恋がたき 坐
少し言葉の多すぎた夜 桃
完璧なアリバイが生む不信感 芳
お約束ならここでカツ丼 桃
勝負する前に勝負がついてをり 芳
朝がくるのか夜になるのか 石
流眄(ナガシメ)のブルーボーイに秋扇 庵
懐紙の上に石榴弾ける 羅
上り来て夕月淡き東慶寺 を 月・秋
寄せては返す人の世の波 桃
船上で万歩計見る几帳面 に
ポジティブ思考裏目裏目に 女
三ウ
神集ひしてゐる庭の頼み事 坐
風邪声に効く甜茶(テンチャ)のど飴 桃
母と娘が同窓になる芸大に 羅
恋の舞台に度胸試され 坐
男気のラップバトルを見せつける 芳
紙より軽い約束があり 桃
後出しのチョキ出す人の舌真っ赤 女
百葉箱はぺんき塗りたて 石
空蝉は月の光の中に絶え 桃 月・夏
逍遙趣味と履歴書にかく 庵
何も持たず何も奪わず花あかり に 花・春
盃を追ふ人の曲水 坐
ナオ
囀りに逃がした鳥の声まじる 羅
また戻り橋鬼の仕業か 女
番号を呼ばれて順に渡る川 庵
忍者修行のツアー満員 芳
此処彼処地域おこしに励む長 里
ジルバ踊れる相手いないか 桃
触れてみる金のピアスが冷たくて を
月を抱きし冬眠の蛇 庵 月・冬
不夜城の弁財天に朝を待つ 坐
パワースポット手話の賑やか 桃
健脚の学芸員を追っかける 芳
背負子の中身危険いっぱい 女
ナウ
何事か雀の騒ぐ朝の縁 桃
翁と姥に竹酔の日は を
ドラえもん宇宙ロケット貸しとくれ 遥夢
ドヤの暮らしもあすはみそかに 羅
おおいなる海老が見つかる浅草寺 を
○しをんさんの原句は「ガサ市に海老選びて浅草寺」でした。「ガサ市」は浅草の卸売りですから路上暮らしの人は入れないでしょうね。浅草寺あたりで思いもかけぬ大きなエビをゲット出来たしあわせとしてみたらどうでしょう。路上暮しの人は日々の糧に廃棄食品を手に入れることを自嘲気味に「えさとり」と言っています。どれだけこういう人の境涯に感情移入出来るか・・・というところもあります。来年はいいことがあるゾ。
「熱いとこきゅっと一杯雪ちらちら 庵」、いいですね。やさしい心持ちが出て。字余りには私うるさいですが、この下五悪くない感じ。
「帰りなむ故郷の山母の声 遥」、陶淵明のおもかげの付け。しかし、前句のような人に帰るふるさとあるでしょうか。そのギャップが切ない。
「兄ちゃんの吃音いまも暖かく 女」、子どもの頃は兄弟の吃音が恥ずかしく思い、わざと邪慳にしたこともあったけれど、今となっては兄ちゃんの一途な姿がなつかしい・・。泣けます。
「左翼だのひずむ社会の風吹くが 閑坐」、前句と一体で味わうと、すっかり丸くなった左翼。どこにいようと、自分らしさを失わなければ、又人のために働けるのだろうと思います。
「小説に自分をすべてさらけ出す」「密着の取材を終えてまわす記事」、ドヤでルポしたり小説書いてる人はいますね。
「ドヤ暮し」という前句に(これは「題」とも言えますが)、距離を置いて客観視するか、そのなかにずぶっと入って詠むか、二通りあるようですね。どちらがいいとは言い切れませんが、芭蕉さんは後者の名人です。カメレオンのように周りに様子に溶け込み、男にも、女にも、老人にも、少年にも、貴人にも、乞食にも、何にでもなりかわり、この共感の力の豊かさにこそ芭蕉の怖ろしい力があります。その点で言えば、現代の連句は、マイルドで、つつしみ深い、と感じます。というより愛が足りないのかな? 連句作法に汲々とし、芭蕉さんの突き抜けた蒼天は勿論、芭蕉さんのかわずが飛んだ古池にも
届いてないとしたら、淋しいことです。もう最後ですのちょっと強く書きました。
ではどうぞ。花前です。