令和5年6月 大江戸吟行会小石川後楽園随聞記
大江戸吟行会小石川後楽園随聞記 林 転石
令和5年6月梅雨晴間の一日、大江戸吟行会による東京都文京区の小石川後楽園すなわち旧水戸藩邸上屋敷の庭園見学に参加した。小石川台地の南端に広がるここ後楽園は水戸藩初代藩主頼房が三代将軍家光に所望した土地であり、この土地に家光および幕閣の指導も受け寛永6年に庭園の作事を始め、同9年にほぼ完成した回遊式築山泉水の大名庭園である。更に二代藩主光圀によって中国風の意匠が加えられており、家光はこの後楽園を鷹狩りの際に度々訪れているし、五代将軍綱吉の生母桂昌院もしばしば訪れている(後楽園案内)。
園内に立ち入るとまず目の前に大きな池、大泉水が広がる。琵琶湖を見立てたものであり、正面の小島に徳大寺石という長大な岩が立てられている。この園庭の造作を差配した徳大寺佐兵衛に因んでいる巨岩である。表面に二条の白い石英の線の析出がくっきりと浮かび上がって印象的な景となっている。
右手から歩を住めると小径が続く。もともとの小石川の地勢をいかして山杣を見立てたもので木曽路と称している。庭園内の名称は日本各地の名所旧跡の名前を付しており、頼房、光圀の趣向をうかがわせる。例えば渡月橋、清水観音堂、竹生島など、また中国の故事に因むものもあり、西湖堤、円月橋などは光圀が師事していた明の遺臣、朱舜水の助言であろうか。後楽園という言葉自体が「天下の憂いを先んじて憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ」という光圀の政治思想を表している。
大泉水の北側には現在菖蒲田となっているところがあるが光圀の時代は、稲を栽培する田甫であり、米穀をつくる民百姓の苦心を家中に思い起こさせるためであったという。この後楽園は家中の用に使用する内庭と、外向きに用に供する部分とに分かれており、唐門と称する木製の扉で分けられている。建造時のものは戦災で焼失し、現存するものは最近復旧したものであるが、ここに描かれている葵の紋は簡便な六弁の意匠となっている。ご案内の宇田川さんによれば、三つ葉葵の紋所は将軍家の正式のもので通常に使用するところのものではなく、微妙にデザインを変えているとの事、ではドラマに出て来る助さんが掲げる三つ葉葵の印籠はどうなってしまうのか、謎である。域内には通天橋という京都東福寺のちなむもの、乙羽の瀧という清水寺にちなむもの、大堰川という京都嵐山にちなむものと京都にゆかりあるものが多い。光圀は京都マニアであったらしい。しかし、藩主時代の光圀は江戸定府であり、京都に赴いたのは生涯一度きり(諸説あり)であったとの宇田川さんの説明である。お大名暮らしも窮屈なものである。助さん格さんを引きつれて諸国を漫遊したとの巷説は、光圀が水戸藩の事業として編纂した国史大日本史のため、水戸藩士を日本全国に遣わして資料の調査を行った動きからこのような事が語られるようになったとのお話であった。
光圀はここ後楽園に様々な階層の人々を招いて会合の場としており、後楽園は水戸藩の接待の場所でもあった。外邸の池には中国杭州の西湖の堤を模した長い堰堤が築かれており、将軍御台所の代参として大奥の女中が招かれ池畔での釣りなどを楽しんだという。大奥の女中は多くは旗本または町家の子女であり、漁撈のことなどは全く知らぬ身分であったから、高台から眺める富士山の景などとともに大いに愉快に遊覧したものと思われる。
元禄七年光圀はこの後楽園藩邸に於いて用人藤井紋太夫を手討にして成敗している。藤井は元能役者で光圀にその才をかわれて立身したものであるが、一説に嫡男綱条を将軍継嗣にするという企てがあったともいわれている(三田村鳶魚)。真相はいかがなものだったのであろうか。
このあと会場を神楽坂に移し神楽坂連句会とあわせて連句実作を行った。
神楽坂連句会の発句
殿の庭名所見立ての滝三つ 肇
紫陽花の彩鮮やかに風清し 遊 眠
庭園は昔水戸家や花菖蒲 敦 子
庭園に朱塗りの橋や青葉風 秀 夫
※大江戸吟行会はお世話役宇田川肇さんによる不特定参加者による不定期的な開催、江戸市中の旧跡の逍遥と連句実作を行っている。